開館45周年記念展
没後50年 藤田嗣治 本のしごと
文字を装う絵の世界

会期: 前期 2018年6月23日(土)~8月21日(火)
後期 2018年8月23日(木)~10月30日(火)
主催: ベルナール・ビュフェ美術館
  • 藤田嗣治 1928年頃 撮影:アンドレ・ケルテス ullstein bild / Uniphoto Press

8月23日(木)より後期となりました。一部の展示作品が入れ替わっております。引き続きお楽しみください。

2018(平成30)年は、藤田嗣治の没後50年にあたります。これを記念してベルナール・ビュフェ美術館では、藤田の画業の中でも挿絵を中心に紹介する展覧会を開催いたします。
フランスで画家としての地位を確立した藤田は、絵画だけでなく挿絵本の仕事にも積極的に取り組みました。ヨーロッパでは挿絵本の歴史は古く、書物としてだけでなく芸術作品としての価値も有していました。特に19世紀後半から20世紀にかけて、希少性の高い挿絵本は愛書家たちの収集対象となっていました。藤田がパリに渡った当時のヨーロッパは挿絵本の興隆の時代であり、ピカソやシャガールら芸術家たちが挿絵や装丁を手がけた本が次々と出版され、その人気は高まる一方でした。1919年、藤田嗣治は初めての挿絵本『詩数篇』を手がけ、1920年代には30冊以上の挿絵本がフランスで出版されました。すでに挿絵を手がけていた他の画家たちをも凌駕するこの仕事量は、当時のフランスでの藤田の人気を反映したものであると同時に、藤田自身が挿絵本の世界に魅せられていたことを物語っています。画家は生涯を通じて100冊を超える「本のしごと」に携わりました。
本展では戦前のフランスで発行された藤田の挿絵本、1930年代から40年代の日本での出版に関わる仕事、1950(昭和25)年にフランスに移住してからの大型豪華本の挿絵などの「本のしごと」を中心に、絵画や版画といった「絵のしごと」、さらには藤田が友人に送ったハガキや絵手紙、手作りのおもちゃ、陶芸作品なども同時に展示し、藤田の幅広い制作活動を紹介いたします。

監修:林 洋子
企画協力:株式会社キュレイターズ

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  • 序章: 絵と言葉への前奏曲

    藤田嗣治は1886(明治19)年11月27日、陸軍軍医であった父・嗣章の次男として東京府牛込区(現在の新宿区)に生まれました。小山内薫(劇作家)、岡田八千代(劇作家、画家岡田三郎助の妻)、蘆原英了(音楽・舞踊評論家)などを親族に持ち、芸術的な環境にも恵まれた藤田は幼いころから画家への憧れを抱いていました。1900年藤田は東京高等師範学校付属中学校に入学、この頃から画家になる決意をし、1903年には暁星中学の夜間部でフランス語を学び、フランス留学の準備も始めています。1905年藤田は東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科へ入学し1910年に卒業。この頃から藤田は最初の妻となる鴇田とみ(通称、登美子)と一緒に暮らし始め、1912(大正元)年に結婚しますが、翌1913年念願のフランス留学のため藤田はパリへ渡りました。後に、とみをフランスに呼び寄せる計画でしたが叶わず、藤田ととみの結婚生活は実質半年で終止符を打ちました。
     藤田は大学時代に友人に送った絵葉書、フランスに渡った当初日本に残したとみに宛てた手紙など、絵と文字による融合というべきものを多く残しています。ここでは、1919年からフランスで手掛けた挿絵本の仕事へとつながる資料としてこれらを紹介します。

  • 1章 パリでの出版

    ヨーロッパにおいて挿絵本の歴史は古く、豊かな出版文化を有するパリでは19世紀後半から20世紀になるとエディション番号付き限定本や、美術家による挿絵の入った豪華本が希少価値の高い美術品として愛書家たちの収集対象となっていました。
     1913年来仏した藤田嗣治は、1919年初めて挿絵本の仕事として『詩数篇』を手掛けました。作者の小牧近江はフランス文学者、翻訳家、社会運動家としても知られており、1910年から1919年までパリに滞在し、藤田とも親しく交友していました。この最初の挿絵本は全16ページ、エディション番号付き210部の限定本で、藤田が描いた挿画は12点でした。これ以後1920年代フランスにおいて藤田は多くの挿絵本を手がけることになります。藤田は日本への郷愁を思わせるテーマ、フランスでの生活から生まれたイメージを銅版画、木版画など様々な版によって表現していきました。1929年に出版された『中毒に就いて』は、97部の限定本で、東洋的な挿絵と工夫を凝らしたページデザインは、戦前のフランスでの藤田の本の仕事の集大成と言ってよいかもしれません。

  • 2章 日本での出版

    1929年、17年ぶりに日本に帰国した藤田嗣治は、個展の開催や画集の刊行、講演会、取材など多忙を極めます。そして11月末に初めてのエッセイ集『巴里の横顔』を刊行しました。この本にはパリの風俗や現状についてのエッセイ、自作のカラー複製、パリで撮影された写真なども掲載されていました。1930年初め頃までのわずか3ヶ月の滞在中に藤田はいくつかの本の仕事も手掛けました。パリに戻った藤田は、その後中南米を経て1933年に再び日本に帰国し、本の仕事を再開します。書籍の装丁、挿画だけでなく雑誌の表紙、絵本など本に関わる幅広い仕事を行いました。
     敗戦後の日本で戦争協力者として非難された藤田嗣治は1949年3月単身ニューヨークへ向かい、この地で1年弱暮らした後、1950年2月に君代夫人とともにパリに戻り、その後日本には二度と戻りませんでした。君代夫人を日本に残してアメリカに滞在していた藤田は、米国進駐軍のフランク・E・シャーマン氏に君代夫人が早くアメリカの藤田の元に来られるように頼む手紙を送りました。これらの手紙は英文の文字とともに君代夫人を待ち望む藤田の心情が挿絵として生き生きと描かれています。

    • 『紀行世界図絵』 1936 岡倉書房 ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo,2018 E3040
    • 《書簡(フランク・シャーマン宛)1949年3月31日》 ©Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo,2018 E3040
  • 3章 戦後フランスでの出版

    藤田嗣治は、第二次世界大戦中に戦争画を描いたことで批判され、1949年日本をたちアメリカを経由して1950年フランスに戻りました。1955年にフランス国籍を取得し、さらに1959年にはカトリックに改宗し、レオナール・フジタとなったのです。1968年スイス・チューリッヒで亡くなるまで藤田は日本には一度も戻らずフランス人として81歳の生涯を終えました。
     戦後のフランスにおける藤田の本のしごとは、その量では1920年代に及びませんが、豪華な挿絵本が何冊か残されています。フランスの古文書学者ルネ・エロン・ド・ヴィルフォス著『魅せられたる河』は、パリに着いた翌年に発行された本で、パリの美しい街並みのイメージがエッチング、カラーエッチング、エッチングに手彩色を施した技法などで仕上げられています。ジャン・コクトーの文章に藤田が挿絵を添えた『海龍』、パリの風俗や社会、伝統や文化をテーマにした『しがない職業と少ない稼ぎ』、『四十雀』なども藤田がこの時代に手がけた代表的な豪華本です。
     そして1950年代後半から藤田はかつてパリを引き払う際に手放した自身の挿絵本を再び買い戻しています。東京国立近代美術館が所蔵する旧藤田嗣治所蔵の書籍の多くはこの時期に藤田が買い戻したものが多く含まれており、書籍のトビラには買い戻した年月、金額などが書き込まれています。藤田にとって過去の書籍を買い戻す作業は、過去の自分を取り戻す作業だったのかもしれません。

  • 小企画:藤田と猫

    藤田は、「猫の画家」と呼ばれるほど、猫を描いた多くの作品を残しています。書籍においても、マイケル・ジョセフ著『猫の本』(1930年)、エリザベス・コーツワース著『夜と猫』(1950年)では、愛らしい猫たちが藤田の繊細な筆致で様々な姿態を見せています。テーマ展示では、こうした挿画に精緻に描かれた猫たちに加え、のびのびとしたタッチで描かれた水墨や水彩作品も紹介します。また、ベルナール・ビュフェ美術館での開催期間は、特別展示として、26匹の猫が配された屏風と衝立を展示いたします。

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